白マム印 日本のこと日本のもの

 
27
 


北京故宮博物院200選


東京国立博物館平成館
2012年1月2日〜2月19日



<緙絲極楽世界図軸(こくしごくらくせかいずじく)清時代>


北京故宮博物院200選展はとても驚きに満ちた
展覧会でした。

砧青磁や青銅。
あるいは玉(ぎょく)が展示されているだろうことは
想像ができ、また私はそれらを観たさに上野を訪れました。

が、第一展示室は「書」の渦です。
書をたしなまない不作法な私には猫に小判。
理解できず混雑がただ悔やまれるだけという
ていたらくです。

しかし第2展示室を進むにつれてはじめて観る
平織りや刺繍の緻密さや芸術性の高さに
釘つけとなりました。

トップの画像は、平織りでできています。
まるでそれは絵画です。。
構成の確かさ色の美しさはまさに芸術です。
極楽とはこのようなものと納得せざるを得ません

とても残念なことにこの画像は
下が切れおり皆様にお見せできないのですが、
この極楽世界図の下辺は
まるで日本の浮世絵の青海波そのものだったのです。
水色、青、白の色彩は日本の色そのものでしたし
その模様も浮世絵からでたようでした。

この作品は清時代のものです。
清時代といえば日本は江戸時代です。



<孔雀翎地真珠珊瑚雲龍文刺繍袍(くじゃくはねじしんじゅさんごうんりゅうもんししゅうほう)>

濃い青は孔雀の羽を下地にし、真珠や珊瑚で飾り、
雲龍や吉祥文を模様を刺繍で表した上着。
「袍」は上着のこと。

裾をご覧ください。
ここにもおなじみの模様です。




<明黄色彩雲金龍文緙絲朝袍(めいこうしょくさいうんきんりゅうもんこくしちょうほう)>

皇帝が重要な儀式の際に着る最も高位の礼服です。
この裾の波も見覚えがあるでしょ?



展示の最後の部屋は清朝がいかにチベットあるいは
チベット宗教を大切していかがわかるものです。
現在のチベット弾圧は非常に特異的なもので
清朝の貴族はチベット宗教を篤く信仰し
保護していたといわれます。

このチベットの法衣をご覧ください。
実際の展示はボディにまとわせていたので
その豪華で気高い雰囲気が目の当たりにする
ことができました。


<藍繻子地八宝文刺繍瓔珞法衣(あいしゅすじはっぽうもんししゅうようらくほうい)>
皇帝が大ラマ(高僧)に授ける服。

腕と裾をよくごらんください。
そこには鯉が描かれています。
青海波も浮世絵そのものです。




<乾隆帝文殊菩薩画像(けんりゅうていもんじゅぼさつがぞう)>

これは刺繍ではなく画像です。
清朝の乾隆帝が創建したチベット仏教寺院に伝わった仏画。
中央に鎮座するのは、文殊菩薩に見立てられた乾隆帝です。
この絵の下辺をご覧ください。
まるで風神雷神のようでしょ。




思いがけない品々に目を見張らずにはいられませんし、
その緻密で美しいことにしばし足が止まりましたが、
現在のチベット政策の非寛容さにため息をもらした
のは事実です。

が、
それ以上に
模様の類似性はいったいどういうことなのだろうか?
まさか、故宮博物院にて
浮世絵を思うとは思いもしない私でした。





スポンサーサイト
 
26
 

村上龍、村上春樹、もう一人のMは、




宮本輝です。




彼らは多少の年齢差はあれど同世代といって
よいのではないでしょうか。
小説家としてデビューしたのもほぼ同じです。


1976年 村上龍  「限りなく透明に近いブルー」芥川賞受賞
1977年 宮本輝  「蛍川」芥川賞受賞
1979年 村上春樹 「風の歌を聴け」群像新人賞受賞


宮本輝は現代日本作家の売れっこ純文学作家のなかで
唯一、『超常現象』を小説の中に持ち込まない人です。

但し「泥の河」のお化け鯉や蛍川のラストシーンを超常現象と
ともとれますが。


    


    


さて、
村上龍さんはなんでもありで、テレビ番組も持つほどマスコミに
顔をだし、自分の腹のうちも上手にだす商売上手な作家さんです
からこの際、脇にて休んでいただきます。


問題は宮本輝さんです。

まず、村上春樹さん。
彼は日本の作家を全く相手にしていません。
あるいは日本の文学界(小説界)を、
相手にしていない。
といっても日本文学に関する教養は、
実家が寺でありお父上が国語の教師ということもあり
夕食を食べながら、「日本霊異記」や「源氏物語」が
とりざたされた中で育ち、相当なものです。
経済的にも恵まれている。


かたや宮本さんは家庭的に苦労をしいられ、小説の中に
苦労した自分が投影されている作家です。



ある時期、わたくしは宮本さんの作品を憑かれたように
読み食べました。
それは意図的に何かを得よう、つかもうとか、と
思ったのではなく、純然たる面白さにひかれてです。
デビュー作の泥の河からエッセイにいたるまで
貪りました。


そのときふっと浮かんだのが、

「宮本さんは、村上春樹さんを意識しているなあ」

ということです。
これは、わたくしの思いこみなのですが。

そして、「村上春樹さんを嫌っているなあ」

ということです。なにか文章にしるされているということ
ではありません。
何度も言いますが、わたくしの思いこみ、直感です。

面白いことに、宮本さんのファンは春樹さんを嫌っています。
あるいは読まない。友人に何人かそういう人がいます。
「村上作品は意味不明の絵空事」だそうです。

わたくしにすれば小説に意味を求めることはそれこそ無意味
で、物語として入り込んでいければ、それでよしなのですが。

かたや、村上春樹さんは眼のはしっこにさえ、宮本さんを
とどめていない。
彼の眼は外国の文学(特にアメリカ)にむいている。
これは宮本輝さんにしてみれば悔しいことだろうと思います。

以上がわたくしの思いこみです。








さて、芥川賞にもどりましょう。



1995年より芥川賞選考委員に宮本輝が
くわわります。

その翌年
平成8年(1996年)115回受賞作は


川上弘美 「蛇を踏む」です。






その物語の摩訶不思議なことと完成された美しい文章に
わたくしなど感嘆したものです。


選考委員

池澤 夏樹
石原 慎太郎
大江 健三郎
大庭 みな子
黒井 千次
河野 多恵子
田久保 英夫
日野 啓三
古井 由吉
丸谷 才一
三浦 哲郎
宮本 輝


選考委員の評価は非常に高いものでした。


丸谷才一の選評をあげましょう。

「文句のつけやうのない佳品である。
有望な新人を推すことができて嬉しい。」
「普通、変形譚といふと何か危機的な感じがするものだけれど
、ごく日常的な感じである。」
「普段の暮しのなかにたしかにある厄介なもの、
迷惑なものを相手どらうとしてゐる。それがじつに清新である。」
「書き出しもよく、真中もよく、結末もうまい。」


ところが、ふたりの選考委員がこの作品をまったく評価していません。

石原慎太郎と宮本輝です。

宮本輝は、

「私はまったく評価していなかったので、
最初の投票で委員の多くがこの作品を推した
ときには驚いてしまった。」
「蛇が人間と化して喋ったりすることに、
私は文学的幻想を感じない。」
「私は最後まで「蛇を踏む」の受賞に反対意見を述べた。
寓話はしょせん寓話でしかないと私は思っている。」


この選評はわたくしからすれば、宮本輝は自分を
「小説家としてみずからダメ宣言」をしたような
ものだとみてしまいます。
想像性と創作性の欠如。
小説家としてこの人はなにをやってきたのだろうと
さえ思ってしまいました。

「蛇が人間と化して喋ったりすることに、
私は文学的幻想を感じない。」・・・これが
売れっこの作家のいう言葉だろうかと
暗然としてしまいました。

泥川の鯉はなんだったのだろう。
あの瑞々しい感性はどこいいったのだろうと思って
しまいました。
「寓話はしょせん寓話」・・・寓話も物語であり
小説なのではなかろうか・・・。


  



また、わたくしの思いこみにもどります。

この川上弘美の選評を読んで
わたくしが思っていた「村上春樹嫌い」は
わたくしのなかで絶対的なものになって
しまいました。


    


村上作品は一角獣がでるわ、羊男がでてくるわ、
壁は通り抜けるわ、
それよりなにより寓話のつみかさねですから。


  


さて、記憶に新しい

平成23年(2011年)下半期146回は受賞は2名。

円城 塔 「道化師の蝶」
田中慎弥 「共喰い」


選考委員

石原 慎太郎
小川 洋子
川上 弘美
黒井 千次
島田 雅彦
高樹 のぶ子
宮本 輝
村上 龍
山田 詠美



円城塔の選評をみてみましょう。


「賛否がこれほど大きく割れた候補作は珍しい。」
「私はその中間の立場にいて、私には読み取れない
何かがあるとしたら、受賞に強く賛成する委員の意見に
耳を傾けたいと思っていた。」
「最近の若い作家の眼の低さを思えば、たとえ手は低くても、
その冒険や試みは買わなければならないと思い、
私は受賞に賛成する側に廻った。フィクションになりそこねた言語論
としてあらためて読むと、妙にフィクションとして成り立ってくる。」



これは宮本輝の評です。
この円城塔の作品は失敗作だとわたくしは思っています。
ところが、宮本輝は、

「受賞に強く賛成する委員の意見に耳を傾たい」
と、いい賛成票を投じます。


その、強くすすめたのが誰あろう川上弘美なのです。




芥川賞の選考委員のあれこれは一編の物語です。
これが面白うなかろうはずがありません。



今回の平成23年(2011年)下半期の選考をもって
石原慎太郎は選考委員を退くことになりその
席に奥泉光がすわります。
彼は小説家というより、職業選考委員です。
選考委員の手数料でたべているのかなあと
思えるほど、選考委員に名をつらねています。
地方の文学賞をのぞいてみてください。
彼の名前をあちらこちらで目にします。



再度 第1回選考委員の名をあげましょう。


川端 康成
菊池 寛
久米 正雄
小島 政二郎
佐佐木 茂索
佐藤 春夫
瀧井 孝作
谷崎 潤一郎
室生 犀星
山本 有三
横光 利一

小説で戦ってきた人々です。


小粒の選考委員に、血を吐く思いで小説をかいている
作家の卵が今もいるとしたら(田中慎弥?)
あれこれ言われたくないだろうと
わたくしは思います。



ここらで、村上春樹が選考委員になったら随分と
明日を夢見る無名の書き手を奮い立たせることでしょう。



  


  




*芥川賞あれこれ ///////


                                        前回/追記
    

参考文献・参考ウェブ
芥川賞90人のレトリック 彦素 勉 / 回想の芥川・直木賞 永井 龍男
/芥川賞の研究―芥川賞のウラオモテ(1979年) 永井 龍男
/文藝春秋/週刊文春/ウエブ 芥川賞のすべて・のようなもの


*「芥川賞のすべて・のようなもの」はとても優秀なサイトです。
興味のある方は是非ご覧下さい。
引用に関しては管理者の許可を得ていることを明記
いたします。

 
25
 





1979年 村上春樹は群像新人賞を受賞します。

受賞作「風の歌を聴け」。

その3年前に村上龍が「限りになく透明に近いブルー」にて
この賞を受賞し芥川賞をも受賞します。



村上龍と角川春樹の「パクリ」を思わせるような村上春樹
という本名には、申し訳ありませんが巷では笑がおこった
ものです。

余談ですが「ブエノスアイレス午前零時」で
129回芥川賞を受賞した藤沢周も本名で
「藤沢周平のパクリではないと」本人が、弁明のコメントを
していたのは微笑ましかったものです。

話しを村上さんに戻しましょう。

村上春樹は
昭和54年(1979年)81回芥川賞の候補にあがります。

候補作
「風の歌を聴け」

選考委員

井上 靖
遠藤 周作
大江 健三郎
開高 健
瀧井 孝作
中村 光夫
丹羽 文雄
丸谷 才一
安岡 章太郎
吉行 淳之介

永井龍男にいれかわり
開高健と丸谷才一が加わっています。

丸谷才一と吉行淳之介は群像新人賞の選考委員も
兼ねており、群像でも村上を押し、当然
芥川賞候補として推薦します。


丸谷才一の選評。

「アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を
示さうとしてゐます。」
「もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに
淀みのない調子ではゆかないでせう。
それに、作品の柄がわりあひ大きいやうに思ふ。」

が、
受賞は重兼芳子、青野聰の両氏となりました。

第83回(1980年上半期)では「一九七三年のピンボール」が候補と
なりましたがまたも受賞することができませんでした。

芥川賞をのがした理由は、

群像新人賞を受賞した村上は矢継ぎ早にエッセイや短編小説を
発表し、若者の旗手のような存在になっていきます。
その存在がまぶし過ぎた・・・。
あるいは、10年前に受賞し小説の姿をかえたといわれる
庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」の受賞が響いたと
いわれています。

「赤頭巾ちゃん気をつけて」でいちやく有名作家の仲間入りした
庄司薫は「さよなら怪傑黒頭」「白鳥の歌なんか聞こえない」等
を出版するも1977年以降、庄司いわく「総退却」、つまり
小説を発表していません。
職業は中村紘子の夫というところでしょうか。


村上春樹が芥川賞を受賞しなかったのは、この庄司薫のように
ベストセラーをだしたにもかかわらず、力尽きあとが続かなかった
二の舞を危惧したため・・・ともいわれています。

しかし、それではなぜ村上龍(但し、今もって旺盛に作家活動を
続けている)や池田満寿夫に渡したのでしょうか。
説明がつかないのでは。

また、芥川賞は直木賞と違い新人に出す賞であって、作家としての
持続性は問わないのではなかったでしょうか?



結局つまるところ、村上春樹は芥川賞を太宰治のように切望
していなかった。あるいは2回受賞をのがしたことで見限った
といったほうがいいのではないでしょうか?
もし、芥川賞がほしいのならば、芥川賞を受賞しやすいと
いう原稿用紙100枚前後の中編を書き続けるはずで、
彼が次にだした小説は長編の「羊をめぐる冒険」でした。







1981年に講談社から村上龍と村上春樹の
対談集が出版されます。

この本を読むと、当時村上春樹が龍をとても尊敬していたことがわかります。
春樹は龍が芥川賞受賞後の2作目の「コインロッカー ベイビーズ」に
素直に敬意をあらわしています。
が、
この「ウォーク・ドント・ラン」は絶版です。
もし今も流通しているなら間違いなくロングセラーなのでしょうが、
若気のいたりというか、春樹さんはとても饒舌で、高校生時代の女性経験の
ことや、子供が欲しいなどというプライベートな発言をしており、
流通して後悔したのではないでしょうか。増刷されなかったのは多分
村上春樹の了承がとれないのでしょう。








現在にいたるまでの村上春樹の活躍はわたくしがのべるまでもありません。

彼は日本文学全集に載せる作品のことで編集者ともめ、その編集者が
責任をとる・・・それは入水としてかたちになったり、
信頼していた編集者が原稿を持ちだし、高額で古書店にうりとばしたりと
作家としてかなり辛い立場を経験します。
が、作品は停滞することなく書かれ、足場は外国へときずかれて
今日にいたるまで出す作品すべてがメガヒットなどいわずもがな。




村上龍、村上春樹ときたらもうひとりのMは?



                                        前回/次回

*芥川賞あれこれ ///////


   


参考文献・参考ウェブ
芥川賞90人のレトリック 彦素 勉 / 回想の芥川・直木賞 永井 龍男
/芥川賞の研究―芥川賞のウラオモテ(1979年) 永井 龍男
/文藝春秋/週刊文春/ウエブ 芥川賞のすべて・のようなもの

*「芥川賞のすべて・のようなもの」はとても優秀なサイトです。
興味のある方は是非ご覧下さい。
引用に関しては管理者の許可を得ていることを明記
いたします。

 
24
 

村上龍が受賞した1年後。
昭和52年(1977年)77回受賞作は

池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」です。


選考委員

井上 靖
遠藤 周作
大江 健三郎
瀧井 孝作
中村 光夫
永井 龍男
丹羽 文雄
安岡 章太郎
吉行 淳之介


選考委員に遠藤周作がくわわり
安岡章太郎、吉行淳之介と
第三の新人といわれる世代の作家が
3人となります。

といってなにか新しい選考風景がひろがる
かというとそういうこともない。
それがまた第三の新人らしいのですが。
しかし文士文豪が欠けていき、いれかわりに
第一線の売れっこであり、小説家として肝の
すわった作家がはいったということは
芥川賞にとっては私見ですが、
プラスだったと思えます。





この作品に対して選評はまっ2つに分かれます。


遠藤周作は、


「真向から意見が二つに分れたところにこの作品の
性格がある。私はこの作品を支持した。」
「決して前衛的な小説ではない。」
「耳で聞える声と眼に見えるものの描写しかない。
にもかかわらず電話に反応する二人の白人の女の
なまなましい嫉妬は、彼女たちの動きで
なまなましく伝わってくる。」
「いずれにしろ、この作者の資質を否定
することはできない筈である。」

と述べ、
中村光夫は 

「抜群の出来です。」という言葉を使っています。


ところが、当時文藝春秋編集長として司会を
務めた半藤利一氏が証言するには、
前年の村上龍の受賞にも猛反対した
永井龍男は

「俺に意見はもうない。戦死だ。」

という言葉を発し、選考後に
料理がだされると手をつけず
「本日はこれにて失礼する」と席をたたれ
自ら選考委員を退いたそうです。

村上龍、池田満寿夫と続いた正統芥川賞から
逸脱した(永井からみて)小説に堪忍袋の緒が
切れてしまったのでしょう。

見事な引き際ですね。
芥川賞は受賞側にも物語がありますが、
選考委員にもさまざまな模様が織りなされて
います。

半藤さんは選考委員の思い出として三島由紀夫
のことも週刊文春2月2日号にてのべておられます。

『「三島由紀夫は選考会が終わると、雑談をしながら
選評をサラサラと書き一字の直しもなく
料理も食べずに「それじゃあ」と帰っていく。
格好良かった」。』

これはもう三島のコテコテの美学ですよね。


わたくしは思うのですが、芥川賞受賞に至らずも
あるいは酷評されたとしても三島由紀夫や川端康成他
の綺羅星の作家につつかれただけでも大金星では
ないでしょうか。


問題は村上春樹です。



  



                                         前回/次回

*芥川賞あれこれ ///////


参考文献・参考ウェブ
芥川賞90人のレトリック 彦素 勉 / 回想の芥川・直木賞 永井 龍男
/芥川賞の研究―芥川賞のウラオモテ(1979年) 永井 龍男
/文藝春秋/週刊文春/ウエブ 芥川賞のすべて・のようなもの




*「芥川賞のすべて・のようなもの」はとても優秀なサイトです。
興味のある方は是非ご覧下さい。
引用に関しては管理者の許可を得ていることを明記
いたします。

 
24
 


「赤頭巾ちゃん気をつけて」の次に
お祭騒ぎになった受賞作といえば、
昭和51年(1976年)75回受賞作

村上龍の「限りなく透明に近いブルー」です。


選考委員

井上 靖
瀧井 孝作
中村 光夫
永井 龍男
丹羽 文雄
安岡 章太郎
吉行 淳之介





この作品を受賞した時、村上龍は美大在学中
の学生でした。
内容は、福生(米軍基地)での女と薬の日々を描いた
反道徳的(大時代的言い回し)ということで、
群像新人賞を受賞したときから、彼をとりまく
状況はまるでカーニバルのような騒々しさでした。

が、

芥川賞選考委員の積極的支持は過半数をとるうえ
選評も非常によいものでした。
芥川賞受賞作品の中で「赤頭巾ちゃん」にならぶ
好意的選評です。

例えば吉行淳之介は

「この数年のこの賞の候補作の中で、その資質は群を抜いており、
一方作品が中途半端な評価しかできないので、困った。」
「どこを切っても同じ味がする上にやたら長く、半ばごろの
「自分の中の都市」という理窟のような部分に行き当って、
一たん読むのをやめた。」「作品の退屈さには目をつむって、
抜群の資質に票を投じた。この人の今後のマスコミとの
かかわり合いを考えると不安になって、「因果なことに才能がある」
とおもうが、そこをなんとか切り抜けてもらいたい。」

と言い、丹羽文雄は

「芥川賞の銓衡委員をつとめるようになって三十七回目になるが、
これほどとらまえどころのない小説にめぐりあったことはなかった。
それでいてこの小説の魅力を強烈に感じた。」
「若々しくて、さばさばとしていて、やさしくて、
いくらかもろい感じのするのも、この作者生得の抒情性のせいであろう。」
「二十代の若さでなければ書けない小説である。」

と、褒めています。
そして中村光夫にいたっては、

「無意識の独創は新人の魅力であり、
それに脱帽するのが選者の礼儀でしょう。」

とまでのべています。



ここまで言われると、三島由紀夫や
川端康成の選評をきいてみたかった
ものですが、すでに泉下の人です。


この後、村上龍は村上春樹さえも憧憬する
「コインロッカー ベイビーズ」を出し
才能をあますところなくみせつけます。








その頃の村上春樹は「風の歌を聴け」で龍に
遅れること3年で群像新人賞を受賞したにも
かかわらず芥川賞をのがし、次作の
「1973年のピンボール」がまたも芥川賞を
のがすというヤレヤレ的騒動の渦中でした。







ヤレヤレ・・・だいじょうぶマイ フレンド・・・。

                                        前回/次回

*芥川賞あれこれ ///////


参考文献・参考ウェブ
芥川賞90人のレトリック 彦素 勉 / 回想の芥川・直木賞 永井 龍男
/芥川賞の研究―芥川賞のウラオモテ(1979年) 永井 龍男
/文藝春秋/週刊文春/ウエブ 芥川賞のすべて・のようなもの




*「芥川賞のすべて・のようなもの」はとても優秀なサイトです。
興味のある方は是非ご覧下さい。
引用に関しては管理者の許可を得ていることを明記
いたします。

 
22
 

芥川賞をいちやくしらしめたのは
昭和30年34回受賞の
石原慎太郎「太陽の季節」。
ということは間違いないでしょう。

しかし、並行してあげなければいけない作品が
あります。
それは、昭和44年61回受賞作
庄司 薫の 「赤頭巾ちゃん気をつけて」です。






この「赤頭巾・・・」時の選考委員は
やはり文士文豪という
冠が似合う先生がたです。


石川 淳
石川 達三
井上 靖
大岡 昇平
川端 康成
瀧井 孝作
中村 光夫
永井 龍男
丹羽 文雄
舟橋 聖一
三島 由紀夫


この「赤頭巾・・・」は
今の人にどんな作品か一言でわかってもらおう
とするならば「オザケンみたいな小説」で、
きまりです。
と、書きながら、オザケン自体がもう過去形で語られているので、
どう説明すればよいやら。


高偏差値、日比谷高校、甘いマスク、
学生運動、おちゃめな彼女。

この小説のキーワードをあげるなら上記のよう。
文体は軽やかで口語調。

ベストセラーとなり、映画化、NHKドラマ化も
されたものです。
ついでに書くならば、小説の中に紘子ちゃんとして
登場させたピアニストの中村紘子さんとの結婚は
当時大ニュースとなりました。


随分脱線してしまいましたが、この小説が出たことによって
日本の現代小説は随分変わりました。
それまでの自然は重々しくなければならない。
青春とは重くて暗い。
等の重しがとれて、軽くポップな文学がお日様を浴びるようなります。


この時の芥川賞選考委員の選評を紹介しましょう。


三島由紀夫
「才気あふれる作品だと思う。」
「饒舌体で書きつらねながら、女医の乳房を見る
ところや、教育ママに路上でつかまるところ
などは、甚だ巧い。」

丹羽文雄
「面白かった。」
「面白い小説のジャンルでは群を抜いていた。
これはこれでよろしい。」

瀧井孝作
「現今の学校卒業生の生活手記で、十八歳の少年にして
は余りにおしゃべりだが、この饒舌に何か魅惑される、
たぶらかされる面白味があった。」「構成も面白く、
繊細な美しさがあった。筋のない小説らしい。」

大岡昇平
「現代の典型の一つを、「猛烈」「最高」など流行語で
書き表しているのに興味を惹かれました。」
「この作品が「新しさ」という点で、芥川賞に
ふさわしいのではないか、と推薦しておきました」


どうです?
ベタ褒めでしょ。
他の先生方も非常に好意的で、芥川賞の選評で一番
ほめられている作品ではないかと思います。

かく言うわたくしもこの作品は大好きで現代小説の
金字塔だと思っています。この金字塔に関しては
村上春樹の「風の歌を聴け」常にがあがりますが、
その8年前にでたこの小説こそだと思っています。


べた褒めの選評をあげましたが、実は川端康成氏は、

「おもしろいところはあるが、むだな、
つまらぬおしゃべりがくどくどと書いてあって、
私は読みあぐねた。」と。

*選評の引用は「芥川賞のすべて・のようなものより

この選評を読むだけで楽しくなってしまいます。



作家の半藤一利氏は文藝春秋社の編集者としてこの
芥川賞選考会の司会などつとめておられたのですが、
川端康成氏のことを

「怖かった、といえば、川端康成さん。
ほとんど発言しないのだが、
『これはいいと思います』と一言の
重みがあり、議論の流れが変わることもあった。
存在感は絶大でしたね」と。
*引用週刊文春

あの虚無そのもののようなぎょろ目で
言われたら、それはもういうことを
きいてしまうでしょう。



この川端康成の「石原慎太郎の太陽の季節」の
選評は、

「第一に私は石原氏のような思い切り若い才能を
推賞することが大好きである。」
「極論すれば若気のでたらめとも言えるかもしれない。
このほかにもいろいろなんでも出来るというような若さだ。
なんでも勝手にすればいいが、
なにかは出来る人にはちがいないだろう。」

と、いうもので同じような若気の作品の庄司薫作品の
無関心さと随分違います。







この時選者に三島由紀夫がいますが、
三島は作家デビュー前に何通もの
ファンレターからはじまる甘ったれた手紙を
川端康成におくり、またそれに康成自身も応え
とても可愛がっています。



                                        前回/次回

*芥川賞あれこれ ///////


参考文献・参考ウェブ
芥川賞90人のレトリック 彦素 勉 / 回想の芥川・直木賞 永井 龍男
/芥川賞の研究―芥川賞のウラオモテ(1979年) 永井 龍男
/文藝春秋/週刊文春/ウエブ 芥川賞のすべて・のようなもの




*「芥川賞のすべて・のようなもの」はとても優秀なサイトです。
興味のある方は是非ご覧下さい。
引用に関しては管理者の許可を得ていることを明記
いたします。

 
21
 

前回、選者が小粒といってしまいましたが、
第1回目の選者のすごいこと。

川端 康成
菊池 寛
久米 正雄
小島 政二郎
佐佐木 茂索
佐藤 春夫
瀧井 孝作
谷崎 潤一郎
室生 犀星
山本 有三
横光 利一


まさに文士と文豪の集まりです。
時代劇のお芝居でもはじまりそうです。

ご存知のことと思いますが、芥川賞は
菊地寛が親友の芥川龍之介を偲び
創設した新人小説家に与える賞です。


第1回受賞作は石川達三の「蒼氓 (新潮文庫)」
です。






候補者のなかには、高見順や太宰治がいました。
この頃の太宰治は薬物中毒症となり多額の金銭を必要としており
小説家としての保証として、そしてそれ以上に賞金500円が
必要だったようです。

大方の予想は「逆行」と「道化の華」2作が候補にあがった
太宰治が受賞するということでしたが蓋をあけると落選。

この時の川端康成太宰に対する選評、

「逆行と道化の華は一見別人の如く、そこに才華も見られ、
なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に
盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、
才能の素直に発せざる憾みあった。」というもので、

太宰は「作者目下の生活に厭な雲ありて」に過敏に反応し
「川端康成へ」と題する文章を掲載、
「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、
舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さうおもった。
大悪党だと思った」と川端をなじり倒すのですが、
これに対し川端は

「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい。・・・生活に厭な雲云々、
も不遜の暴言であるならば私は潔く取消す」ときわめて大人の対応
をしたのは有名な話です。







太宰はこれほど川端を攻撃したというのに、
翌年の第3回芥川賞決定前に女々しい手紙を「大悪党」に
おくります。

「何卒私に与へて下さい。一点の駈け引きございませぬ。
深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが、右の懇願の言葉
を発っせしむる様でございます。
私に希望を与へて下さい。私に名誉を与へて下さい。
晩年(候補作)一冊のみは恥かしからぬものと存じます。
早く、早く、私を見殺しにしないで下さい。
きっとよい仕事ができます」


わたくし自身は逆行はちょっと散漫で好きではありませんが、
道化の華も晩年も非常によい作品だと思っています。
死んでなお増刷され続けているのがのがその証拠でしょう。

太宰は短編の名手ですし、ユーモア作家でもあり
文章もとてもきれいです。


個人的には短編の「眉山」が好きです。


余談ですが、
太宰が芥川賞をとれなかったということは素行が悪すぎた
ということも本の少し影響したかもしれませんが、
次女の津島佑子さんがやはり芥川賞を受賞されていないのは
解せません。











<太宰治 入水地に置かれている玉鹿石(三鷹駅南口)>

*芥川賞あれこれ ///////


参考文献・参考ウェブ
芥川賞90人のレトリック 彦素 勉 / 回想の芥川・直木賞 永井 龍男
/芥川賞の研究―芥川賞のウラオモテ(1979年) 永井 龍男
/文藝春秋/週刊文春/ウエブ 芥川賞のすべて・のようなもの

 
*「芥川賞のすべて・のようなもの」はとても優秀なサイトです。
  興味のある方は是非ご覧下さい。


                                         前回/次回
 
15
 




2011年下半期の芥川受賞作を読んでみました。



受賞後のインタビューをご覧になられた方々は
椅子から滑りおちるのではと、期待をもこめて
お行儀の悪い田中慎弥氏をニヤニヤしながら
ご覧になったのではないでしょうか。
彼の不機嫌ぶりは結果として出版の増刷に
つながり、集英社はしてやったり、という
ことでしょう。

田中氏の作品は彼のあの不埒な態度とま逆の
整った作品です。
スケールは小さいですが中上健次や宮本輝の初期作品
や車谷長吉の作品を彷彿させる古典的な小説です。
2010年度下半期に受賞した西村賢太 『苦役列車』 も
この系譜です。

私個人としては西村賢太さんの作品を読み苦行のような陰々滅々とした
日々を描く、
そしてそこに性的なものや暴力をともなう小説はもう「飽いた」と
思ったものです。

4畳半フォークに飽きてしまって、
荒井由美がでてきたときのスコーンと抜けるような青さを
もう一度経験したい。
そんな感じです。

それがどんなに出来がよいとしても、うっ屈したものは
たとえいい作品であっても、「もういいよ」と小声で
呟いてしまいます。

そうはいっても、田中氏の作品はたしかに芥川賞に
あたいするものに間違いありません。
読みだして数行で石原慎太郎氏の酷評が
彼にたいしてではなく、もう片方の受賞者、
円城氏であることが誰もが想像できます。

一見お行儀のよい円城氏が不遜な小説、といっても
目を覆う悲惨な描写があるわけではありません。
空。くう。空虚な文字の羅列。








作品は
「わかる人にわかってもらえればいい」という氏の考えが
徹頭徹尾貫かれている作品ですが、
こういう考えは逃げではないかなあと読みながら考えたものです。
その理屈を通したいのなら、最低限、読者が何度も本を閉じるような
内容の小説ではいただけないと思うのです。


 


彼の作品を読みだしすぐにある小説が私の脳裏に浮かびました。

古川日出夫氏のアラビアの夜の種族です。
荒唐無稽、時空をかけての妖術合戦、語りは入れ子状態と、
下世話ないい方をすれば「ひっちゃかめっちゃか」な作品です。
が、
引きずり込まれて、先へ先へと時間を惜しみ読み進む。
手だれの使い手です。

どうも円城氏は古川氏のような作品を目指しておられるのではと
思います。
いえ、文章に関しては古川氏より円城氏の方が整っています。


この円城氏の作品は選者の過半数をとれなかったといわれています。
過半数におよばなかったにもかかわらず芥川賞を与えるというのは
わたくしは選者が小粒になってしまったなあと、独りごちてしまいます。



                                                次回




文藝春秋 2012年 03月号 [雑誌]




*芥川賞あれこれ ///////
 
09
 



<姫辛夷>





このごろよく口にする
「ゆ」ではじまる言葉。


ゆるむ。







会う人会う人にご挨拶のように

私の口をついて出てくる言葉。



「今日は寒さがゆるんでよかったですね」。




寒さがゆるむ。

優しい言葉です。


そう思って悦に入っていたら

「全国的に寒さゆるみ、落雷で死亡事故」
「寒さがゆるみ、屋根から落下した雪の下敷き」

などと新聞の見出しが目にはいり、


そうとばかりは言ってはおられぬと気色ばみます。




寒さがゆるむを言いかえれば、

寒さが和らぐ
寒さが薄らぐ
寒さが衰える
寒さが遠のく

でしょうか。

ただ、「衰える」と「遠のく」は
もう寒くはならないというような感ありき。
まだまだ寒さは油断できない不敵な相手。

やはり、
寒さがゆるむがこの季節にはぴったりです。




水ゆるむ。

と言うも、優しげ。

キシキシと音をたてそうなくらい冷たくて
気が張っているような水面が
ウグイスの下手っぴな初鳴きをきいて
思わずちょっと笑って小さな波紋ができた。
というような、和やかな春先。



そろそろウグイスの下手っぴな初鳴きが聞こえて
きそうですね。


 
07
 


昨日に続いて今日も雨。

ならばお約束の甘酒を。



ことこと煮詰めるたのしさ。



フーフーしながら飲む甘酒は
肌寒の冬におあつらえの飲み物ですが、
俳句の季語としては夏。

夏バテに甘酒ほど滋養のあるものはありません。
飲む点滴みたいなものです。

便秘や肌荒れにもいいけれど、
ビタミンやらアミノ酸がいっぱい含まれていて
ファイト一発の強壮ドリンクです。

江戸時代、
「甘ーい甘いっ甘酒よ〜」と天秤棒を担いだ
甘酒売りが往来するのが夏の風物詩だったそうです。


「甘酒も飴湯も同じ樹陰かな」
       
正岡子規の明治34年夏の作です。
うるさいようになく蝉の音を聞きながら
緑の木陰で子供が美味しそうに甘酒を飲む
情景が浮かびます。


「甘酒や蟇口探る小僧二人」


私は上記の句が好きです。

藪入りでお給金をもらった小僧さんが
足りるかなあ足りるかなあとドギマギ
しながら買い食いしている様子を思い
浮かべてしまいます。
多分ふたりだから出来たのでは。
ふたりだからこそ勇気をだして
「おくれ」って言えたのでは
ないでしょうか。

ちなみに藪入りは昭和のはじめまで
残っていた風習のようです。



なんだかお話がそれてしまいました。


連れ合いがくしゃみばかりしています。
生姜汁をたっぷりいれました。






どうぞ熱々を召しませ。



前回




*掲載画像および文章の転載を禁じます。
甘酒のこと


 
06
 






なんの気なしに雨がふりだして
電気をつけなければ心穏やかでいられない
日中。
ストーブをつけてもなお寒い。

なんの気なしに雨がふる冬は
要注意。



要注意と呟きながら笑みこぼる。

そそくさ、
冷蔵庫より酒粕をとりだして
鉄鍋にいれる。


コトコト煮詰めて
甘い甘い
トクントクンした甘酒のできあがり。

たらす生姜汁を。

日中から甘酒を飲む。

なんの気なしに雨がふる冬は
要注意。


ヨウチュウイ?




・ ・ ・ ・ ・


酒粕甘酒材料(1人分)

酒粕  50g
水   200cc
砂糖  大サジ1(おこのみ)
塩   本の少し
生姜汁 すりおろしor汁

作り方

・鍋に酒粕をちぎっていれる。
 時間があれば2、3時間放置した後混ぜる。
・加熱し途中で砂糖と塩を入れる。
 沸騰直前で火からおろす。
・湯のみに入れて生姜汁をいれる。

*火にすぐかけてもいいのですが、時間をおくほど
 もったりとした風合いがでます。









お昼にいただく甘酒はおいしいものです。



甘酒を飲みだしたのはこの4、5年のことです。
なんだか見た目が気味悪く、
食べず嫌いならぬ飲まず嫌いでした。

ある大晦日のことです。
紅白歌合戦の女性軍の勝利を確認。

連れ合いとマフラーやら帽子やら厚手の靴下やら
エスキモーのような手袋ややや、
いろんなものを体にまきつけて家をでました。

もうすぐ新しい年をむかえる夜の外気はとげとげとして
私も連れ合いも、首をすくめ背をまるめて歩きます。

目指すは氏神さまのお宮さんです。

静かな夜に足音が響きます。
氏神様にむかって人々が歩いています。

紅白を最後までみるんじゃなかった。
と、後悔。

案の定、小さなお宮さんは2重の列です。

たくさんの人がいるというのに寒いこと寒いこと。
足踏みをしながら待つこと1時間以上。







やっと神さんの前にたち、
子どもの健康やら母のことやら世界平和のことやらを
瞬時にお願いして境内にでると、
無料で甘酒が配られていました。

甘いお酒の香り。
発酵したようなプツプツした表面。
タプタプ、ねばねばした感じ。

どれも苦手でしたが、寒さに耐えかねていただいて
みたら、そのおいしいこと。

甘いお酒の香り。
発酵したようなプツプツした表面。
タプタプ、ねばねばした感じ。

このどれもが大好きになってしまいました。

冷え切った五臓六腑にタプタプねばねばが
しみ込んでいき、連れ合いと顔を見合わせて
頬笑みあった次第です。


初頬笑み。




以来、

なんの気なしに雨がふる
寒い冬は
要注意・・・です。



                                            次回



  




*掲載画像および文章の転載を禁じます。
 
05
 
静寂の尼僧寺院と正暦寺ツアー録
<奈良 普門山 圓照寺>  ///


  



住所 奈良市山町1312
交通 近鉄奈良駅より「山村町」行きバス
円照寺前下車徒歩5分
 ・ ・ ・ ・ ・
山号 普門山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 如意輪観音
*  華道「山村御流」の家元
*  山門より先は非公開









円照寺を拝観したのは2010年2月10日のことです。
細かな雨が降りそぼる寒い日でした。

拝観不可で有名なこの御寺になぜ入ることができたか、
皆さん不思議にお思いのことと思います。
答はとても簡単です。
あまりどころか、殆ど知られていませんが
奈良交通が春先に観光バスをしたてています。
観光パンフレットに円照寺の名前を見つけた時は
小躍りしたものです。


この日、バスガイドさんが何度も何度も
「敷石から絶対足をはずさないでください」と
大声をだされたのが、静かな御寺に響き苦笑
したものです。
少しでも落ち度があればこの拝観ツアーは
中止になるらしく、バスガイドさんは
とても神経質でした。

そういうわけで、シダやらナラの木が生い茂る
参道脇に苔むした石段や獣道のような小道に
目がいっても、ひとり列をはなれることができず、
私は翌日もひとりでこの御寺へとやってきました。





昨日は20名ほどの人々と訪れたのですが、
その時でさえ、その森閑としたさまに
身をただしたのですが、ひとりだと
それに畏怖が加わります。

このようなところにて女性であるというのに
門跡として暮らすにはどれほどの修行をつめば
いとやすき心持になるのでしょう。


このお寺が人に知られるようになったきっかけは



昭和天皇の妹君
・・・謎につつまれた悲劇の皇女
(文春文庫)河原敏明著



の出版です。


この本の内容の真意はさだかではありませんが
驚くに値するものです。

 ・ ・ ・

前門跡山本静山尼(平成2年入寂)さまは
昭和天皇のお妹さま(絲子さま)。
末弟君三笠宮殿下と双子であったとのこと。
昔は双子は畜生腹といい、忌み嫌われた
といいます。
そのために絶対かん口令のもとに京都の
山本子爵家に里子にだされたといわれ
ています。
天皇家の血のまじったお子がうまれないように
との配慮で、8歳で得度しこの森閑とした寺で
小学校にも上がらず79歳の生涯を終えられて
います。



<山村御流お家元>

 ・ ・ ・

 

門の手前右に石段があります。











西国三十三所霊場です。
登りつめると弘法大師を祀る
大師堂がありました。












小雨は降りやまず寒く
小鳥のさえずりひとつきこない
空間です。

大師堂前には観音石仏が三十三体。
舟形を背にした浮彫の観音菩薩像は
どれひとつとして同じ顔がありません。












三島由紀夫の長編小説、「春の雪」「奔馬」
「暁の寺」「天人五衰」に出てくる月修寺は
この御寺をモデルとしています。


取材で、静山尼さまにあった三島は
「この世のものとも思えないほどの気品で
、ただ絶世の一語につきる」と言っています。








三島由紀夫は美しい女性を表現する時によく
「臈長けた(ろうたけた)」という言葉を
使いましたが、静山尼さまはまさに
臈長けたお方だったのでしょう。







弘法大師堂をあとにして
今度は参道の左のまるで獣道のような
坂をのぼりましょう。








シダと熊笹におおわれた小径をはいって行くのは
それだけでも心細いのですが、その路がいきなり開けたと
思うと、







全身が強張ってしまいました。









<円照寺八島地蔵尊 >





この先を進むと崇道天皇ご陵があるとの道標でしたが
さすがにこれ以上進む勇気がなく、
この参道散策はここにておしまいです。








普門山 圓照寺 いかがでしたか。

拝観をお望みの方は、
今季の奈良交通の円照寺ツアーは2月9日16日23日/3月1日
です。0742-22-5110に問い合わせてみてください。





         あしひきの山ゆきしかば
           やま人の われに得しめし 
          山つとぞこれ



  

                                        前回/次回


      




en1  en1

<静寂の尼僧寺院と正暦寺>ツアー
この円照寺拝観記録は奈良交通の「静寂の尼僧寺院と正暦寺」ツアー
に組みこまれたものです。
個人では拝観が難しい興福院、個人では拝観不可の円照寺、そして秘仏
拝観のうえ、精進料理を口にすることができる正暦寺ツアーが可能です。
春と初冬に催されています。ツアー料金 7.000円(昼食こみ)
詳細は奈良交通 0742-22-5110 にお尋ねください。
*正暦寺でいただく精進料理こみで7.000円は
 とてもお得だと思います。

この記録は2010年2月に拝観したものです。
実際のツアーの順路は、
近鉄駅前9時30分発 興福院正暦寺円照寺 
です。

*円照寺拙ブログ ///


*掲載画像および文章の転載を禁じます。

 
05
 


<鬼をよせつけない結界、あるいは勧請縄の役目>


声をだして豆まきをしましたか?


3日は、日中はお日様が照り温かでしたが
夜は空気が冷たくて、
まるで糸電話のように、ピンとはった糸が
どんなに些細な音も伝えてくれそうでした。

でも、
期待した音。
声はどこからも聞こえてきませんでした。

私が子供の頃、昭和時代の節分の日といえば
夜になると家々から
「鬼は外 福は内」と威勢のよい声が
聞こえてきたものです。

いつの頃からでしょうか。
気がつくと、節分の日は普段の夜と
同じしじまに包まれています。


どうして大きな声をだして豆まきしないの?
と、
問うと、
答はみな同じです。

「恥ずかしい」。

そういえば、豆まきにかぎらず、家々から
大きな笑声やら、叱りつける声やらが聞かれないように
なって久しいですね。

これは淋しいことだなあと私は思います。


さて、
子どもの頃の節分にはふたつの忘れられない
思い出があります。


ひとつは、少し恥ずかしい思い出です。

常日頃からなにかにつけて一方的で高圧的な父が
母をなじりだし、それに飽きると家を出て行きました。
父になじられている間、黙って耐えていた母は
父の姿が見えなくなると、やおら豆をわしづかみして
庭にむかって投げつけて
「鬼は外 鬼は外」と声あげた、というより
おらびだしたのでした。

このことに私は感傷的なものを盛り込むつもりはありません。
ただただ忘れ得ぬ思い出です。


ふたつめの思い出は、幼馴染のKちゃんことです。

kちゃんの家は由緒のある古くからの顔役さんの家です。
豪壮な家は堀に囲まれて石橋を渡り門をくぐるなまこ塀
のお家です。

節分の日に母と駄菓子屋さんに豆を買いにいくとKちゃんと
お母さんがやはり豆を買いにきていました。
kちゃんのお母さんは落花生をたくさん買い求めます。
いぶかしがった私の母が「なぜ」と問うと、
おばちゃんは「豆をまくと不潔だから食べられないでしょ。
落花生だったらだいじょうぶでしょ」と。
昭和30年代末のこと、衛生感覚がいまほど行きとどいて
おらず、それを聞いた私は、今でいうところの
カルチャーショックを受けてしまいました。
そして、今思えば笑えますが、本気で
「家柄の差」を感じ傷ついたのでした。
その当時の我が家は家中に落ちた豆を拾って口にいれて
いたのですから。


さて、節分ですが、季節の変わり目には邪鬼(邪気)が
生じやすいということではじまった「お祓い」が元。

多分この季節は流感が猛威をふるい多くの人が命を落としたのでは
ないでしょうか。
それが邪気、お祓い、となったのでしょう。

ウィキペディアをのぞいて、「アレ?」と思ったことがひとつ。
節分は3日とはかぎらないということ。
4日の時もある。
もっといえば、
1984年までは、4年に1度の閏年2月4日だった。


4年に一度!?
一生懸命記憶をたどるのですが、子供の頃4年に1度だったのやら?
母が生きていれば、問うのですが、それもかなわず、
皆さんの記憶はどうですか?
それともウィキペディアの文章の解釈を私が間違っているのでしょうか。
どなたかご教示をくださればと思います。

*上記↑についての追記
   たびささんがコメントをくださいましたの
   でコメント欄をご覧ください。*



なににせよ、節分の日くらい、隣近所を気にせずに
大きな声をだして鬼を追い払い福を呼び込みたいものです。
特に、このような世の中ですから。



 
03
 
静寂の尼僧寺院と正暦寺ツアー録

<奈良 普門山 圓照寺>  ///






住所 奈良市山町1312
交通 近鉄奈良駅より「山村町」行きバス
円照寺前下車徒歩5分
 ・ ・ ・ ・ ・
山号 普門山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 如意輪観音
*  華道「山村御流」の家元
*  山門より先は非公開







菱形の敷石を踏み外さないように足をすすめます。










築地塀(ついじべい)には5本の定規筋(じょうぎすじ)
がみられます。
5本筋は最高格式をあらわすもです。

大伽藍があるわけではありません。
唐破風の玄関、築地塀の向うに見える
茅葺が本堂円通殿です。

茅葺の茅がずいぶん痛んでいますが、
カラスが巣の材料に抜いていくのだそうです。




<寝殿造の書院の唐破風の玄関 >
















境内に入ってみましょう。










禅寺に通じるような簡素な造りです。




<阿弥陀堂>





<鎮守様>





<本堂 円通殿>




<円通殿 扁額>





円通殿扁額の隣には
第六世門主の伏見宮文秀女王の御筆で
「みほとけの深き誓いの池水に心の月の影ぞ浮かべる」
という額がかかっています。


「奈良の寺社観光」さんより額の内容をご教示いただいた
  ことを明記します。




<向拝 天井>





豪奢・華美なところは一切ありません。
質実な美しさです。

『禅寺に通じるような簡素』なと記しましたが
禅寺は内部にはいると、襖や天井なんどに
豪奢な飾りをするものですが、この御寺は
内部にいたるまで簡素です。


本尊を安置する厨子は重厚ではあるけれど、
きらびやかなところはありません。
金色に輝く天蓋もなければ柱に極楽が描かれている
わけでもありません。

しかし、厨子の欄間の木の彫りの見事なこと。
深くうがたれ唐草の意匠。
誰彼に見せることを意識せずに、我祈りだけを
思う空間として非常に豊かです。




私にとって問題だったのは、この円照寺のご本尊さまです。



門跡寺なら法華寺さんのように
十一面観音菩薩さまがお似合いだと思って
いたのですが、こちらのご本尊は、エロス
漂う木造如意輪菩薩さまです。

8歳で得度されてつらいことは語りきれない
ほどあったはずの山本静山尼さまは、

「悲しいときもうれしいときもご本尊の観音様にだけ
そのことをお話ししてきました。
私を慰め励ましてくださった観音様。今も観音様は
私の心の母です」

とおしゃっています。


母としておすがりするには如意輪さんは?・・・
と、
首を傾げていた私は、実際に円照寺さんのご本尊の
木造如意輪観音菩薩様を拝顔して、氷解しました。

厨子のなかにおいでの如意輪観音さまはそれはそれは
美しくお優しいお顔をしておいででした。

いままで如意輪さんを何度か拝顔していますが、
このような高貴なお方ははじめてです。

如意輪さん特有のなまめかしさはなく
慈しみをふくんだ綺麗なお方でした。

このご本尊ならば静山尼さまはひたすら
祈られたでしょう。

幼くしてこの寺に入られた静山尼さまは
幼心にこの美しさに圧倒されたのでは
ないでしょうか。






↑この写真は「昭和天皇の妹君」から転載したものです。
写真では如意輪さんの気高い美しさが醸し出されて
いず、残念です。


この如意輪さんの宝冠がまた見事なもの
でした。中がくりぬかれ化仏がまつられて
います。

光背もシンプルですが躍動的です。

この御本尊前には「古い青銅の獅子」のような
思わず笑みを浮かべたくなるような獣の像が
おかれていました。

美しい御本尊とこの像の不均等がとても
印象に残っています。




<奥殿のお坪>










なんともいえない冴え冴えとした空間。


円照寺は
加えていく美ではなく引いていく美。
を、
具現化しているお寺さんです。














次回は参道を散策しながら静山尼様のことをお話しましょう。



昭和天皇の妹君
・・・謎につつまれた悲劇の皇女
(文春文庫)河原敏明著



                               前回/次回


en1  en1

<静寂の尼僧寺院と正暦寺>ツアー
この円照寺拝観記録は奈良交通の「静寂の尼僧寺院と正暦寺」ツアー
に組みこまれたものです。
個人では拝観が難しい興福院、個人では拝観不可の円照寺、そして秘仏
拝観のうえ、精進料理を口にすることができる正暦寺ツアーが可能です。
春と初冬に催されています。ツアー料金 7.000円(昼食こみ)
詳細は奈良交通 0742-22-5110 にお尋ねください。
*正暦寺でいただく精進料理こみで7.000円は
 とてもお得だと思います。

この記録は2010年2月に拝観したものです。
実際のツアーの順路は、
近鉄駅前9時30分発 興福院正暦寺円照寺 
です。

*円照寺拙ブログ/// 



*掲載画像および文章の転載を禁じます。
円通殿扁額の隣の額の記載されている内容が不明でしたが
「奈良の寺社観光」さんのウエブを参考にさせていただきました。
 
01
 
静寂の尼僧寺院と正暦寺ツアー


<奈良 普門山 圓照寺>  ///






奈良市山町1312
近鉄奈良駅より「山村町」行きバス
円照寺前下車徒歩5分


山号 普門山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 如意輪観音
*  華道「山村御流」の家元
*  山門より先は非公開






円照寺は
斑鳩の中宮寺、佐保路の法華寺と共に大和三門跡
と呼ばれる皇族や元貴族が住職を務める門跡寺院
です。

歴史的は三門跡寺のなかで一番新しい・・・、
といっても1640年、後水尾天皇の第1皇女であった文智女王
が出家されて庵を結ばれたのがはじめの古刹です。


この円照寺は、奈良市郊外の山村(やまむら)にまるで身を
かくすようにひっそりと堂宇を展開しています。

一般に知られるようになったのは三島由紀夫の
最後の作となった「豊饒の海(ほうじょうのうみ)」
4部作のなかに登場する月修寺はこの円照寺が
モデルということが広まったことと、

前門跡山本静山尼(平成2年入寂)さまが
昭和天皇のお妹(絲子さま)ではないかという
本が出版されたこと、



昭和天皇の妹君
・・・謎につつまれた悲劇の皇女
(文春文庫)河原敏明著



に、つきるように思います。







近鉄奈良駅前から山村行きのバスに乗り
20分ほどで、円照寺バス停に到着します。
運賃は200円。


奈良駅からさほど遠いとはいえないのに
なにもない淋しい風景です。








バスを降りると整然とした石畳の参道が目の前に
あらわれます。


あたりはとても静かで1歩足が進むごとに
世俗から遠のいていくのがわかります。

昭和天皇の妹ではといわれた静山尼さまは
8才にして京都の男爵であった養父母の
もとから離されて得度をされ、この森閑とした寺で
小学校にも上がらず79歳の生涯を終えられて
います。







*沼があった。沼辺の大きな栗の強い緑のかげに休んだのであるが、
風ひとつなくて、水すましの描く青黄いろい沼の一角に、
枯れた松が横倒しになって、橋のように懸っているのを見た。*



三島由紀夫の4部作の<天人五衰>のなかの描写通り
参道右手に青緑色の陰鬱な沼が広がっていました。



石畳は砂利となり
先に進むにつれて緑は濃くのしかかり
空気がすべてを拒絶するような冷たいものに
変わっていくのを感じます。











*その杉木立の暗みの中を、白い蝶がよろめき飛んだ。
点滴のように落ちた日ざしのために燦と光る羊歯の上を、
奥の黒門のほうへ、低くよろばい飛んだ。<天人五衰>より*







お小さかった静山尼さまは乳母に連れられて
この寺に入られたその夜、乳母と布団に
入られて寝入られたといいます。
夜中に目が覚めると乳母がいない・・・。


泣き叫びながら部屋から部屋を探したと
後年記述されています。










*車寄せの陸舟松が奥に見透かされる山門に立ったとき、現実に自分の身が
ここにあることを本多は殆ど信じかねた。<天人五衰より>*







参道入り口には通行禁止の立て看板。
そして山門にも拝観不可の札。
が、
その流麗な文字ゆえにか嫌な気持ちは
一切おきません。




















次回は山門をくぐり境内をご案内します。                          次回



  


en1  en1

<静寂の尼僧寺院と正暦寺>ツアー
この円照寺拝観記録は奈良交通の「静寂の尼僧寺院と正暦寺」ツアー
に組みこまれたものです。
個人では拝観が難しい興福院、個人では拝観不可の円照寺、そして秘仏
拝観のうえ、精進料理を口にすることができる正暦寺ツアーが可能です。
春と初冬に催されています。ツアー料金 7.000円(昼食こみ)
詳細は奈良交通 0742-22-5110 にお尋ねください。
*正暦寺でいただく精進料理こみで7.000円は
 とてもお得だと思います。

この記録は2010年2月に拝観したものです。
実際のツアーの順路は、
近鉄駅前9時30分発 興福院正暦寺円照寺 
です。

円照寺ブログ ///



*この項の画像の転載を禁じます。

プロフィール

gurekomom

Author:gurekomom
ひとりテクテク、本をポッケにいれてお仏像巡りをしている時が一番幸せです。

掲載写真の無断使用は禁止いたします。ご使用になりたい場合はご一報ください。

カレンダー

01 | 2012/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 - - -

カテゴリ

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

ありがとう

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR
Copyright © gurekomom / Designed by Paroday