白マム印 日本のこと日本のもの

 
30
 
その1/2/3/4/5/6/7



<付箋紙だらけでわけがわからなくなってしまいました 苦笑>


三島由紀夫は猫好きです。

三島の昭和23年9月28日号第一新聞掲載随筆

・・・・・・
あの憂鬱な獣が好きでしようがないのです。
芸をおぼえないのだって、おぼえられないのではなく、
そんなことはばからしいと思っているので、
あのこざかしいすねた顔つき、きれいな歯並、冷たい媚、
なんともいへず私は好きです。・・・・・・




対して川端は徹夜で犬のお産につきあうほどの
有名な犬好きです。
ワイヤー・フォックス・テリア、コリー、
グレイハウンドと、純血種の犬を手塩にかけて
育てる様は、手厚すぎて滑稽感さえかんじますが、
本人は真剣です。


三島由紀夫と愛猫
作家の猫 (コロナ・ブックス)
posted by (C)poco



往復書簡にもどりましょう。


昭和37年4月17日付の川端康成から三島由紀夫宛てた手紙

・・・・・・
 ノオベル賞推せん委員のもたつきはおもしろいですね
日本側が気のりしないらしいフランス作家たちが日本を推すと
パリから手紙がきたりしました まああなたの時代まで延期でせう
 近いおめでたをおよろこび申し上げます 奥様御大事のなさってください




ここにみられるようにノーベル賞が日本にもたらされるの
時期早尚とみられ、次の世代の三島が妥当とふたりは
思っていたようです。


二人の手紙のやりとりは、超売れっことなった三島、
親友今東光の参議院選立候補の選挙事務局長となり
大忙しとなった川端、との間でも続きます。

面白い記述が三島の手紙にありました。
随分前に野坂昭如のエッセイにて野坂自身が
「三島由紀夫に褒められたんだ」という一文
を記していました。
その証拠が!



昭和41年8月15日付の三島の手紙

・・・・・・
 このごろ読んだものでは、野坂昭如の「エロ事師たち」が
武田麟太郎風の無頼の文学で、面白く思ひました。このごろ
一般に、文学が紳士風家庭風になっているのを苦々しく存じます。
ブル紳の文学など読みたくありません。・・・・・・・




このような箇所を見つけると嬉しく思うものです。

このようにふたりのやり取りがつづくのおですが・・・。

昭和43年10月17日、文学部門で日本人としてはじめての
ノーベル賞が川端に決定を機に二人は疎遠になっていきます。



昭和43年10月16日付の川端から三島に宛てた手紙

 拝啓 春の海(ママ) 奔馬 過日無上の感動にてまことに至福に存じました
 新潮社より百五十字の広告を書けとは無茶な注文 大変な失礼を
この御名作にをかしたやうで御許しください
・・・・・・



この上記の手紙の翌日17日に川端康成にノーベル賞受賞通知が
届いたのでした。


これで、三島存命中にノーベル賞のめはなくなった。
三島はそう思い、また、川端もそう思い
三島にたいして呵責の念をいだきます。
当時のマスコミもそう思ったでしょう。

三島が川端に甘えはじまった長い手紙のやりとりは
三島が自決する昭和45年の2年間に3通のみになってしまいます。

川端がノーベル賞を受賞しなければ三島はあのような蛮行に
付き進まなかったでしょうし、
川端もあのような最期をとらなかったでしょう。

しかし、今になってみると、大作家というのにふたりはおっちょこちょいと
思われます。いえ、余裕がなさすぎます。
1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞を大江健三郎が
受賞するのですから。

その時存命ならば三島は70才ですから、ノーベル賞は彼のものでしょう。
(わたくしとしては何故大江健三郎が受賞なのかとんとわかりません)。



昭和44年8月4日付の三島由紀夫より川端康成宛の手紙は
1年後の自決をうかがわせるようなものです。



                                 

   
↑この本は絶対の
おすすめです。



その1/2/3/4/5/6/7
スポンサーサイト
 
28
 
その1/2/3/4/5/6/7


<岐阜、ホテルパークロビーの展示より六文銭さんが撮られた写真>


川端康成の自画像。
いかがですか?
意外でしょ。
ちょっと脱力です。

美術品の目利き。
コレクターで知られる川端の
おちゃめな一面です。

この自画像は川端家も気にいっておられるのでしょう。
川端記念会」のアイコンとしても使われており、
上記のサイトにはいられて下までスクロールされると
わざわざ「この画は、川端康成の自画像」と但し書き
までされています。



昭和34年9月20日付の川端康成から三島に宛てた手紙

・・・・・・近刊の週刊誌でオードリイ・ヘプバンが胆石の
痛みで夜中二寝台からころげ落ちたと読み私も切り取る事が
また惜しくなりました・・・・・・


「虚無の眼の人」は、意外と芸能ネタにも詳しい。



昭和36年5月27日付の川端康成から三島に宛てた手紙

・・・・・・
さていつもいつも御煩はせするばかりで恐縮ですが
例ののおべる賞の問題・・・・・・
極簡単で結構ですからすいせん文をお書きいただきませんか
・・・・・・



この返事は3日後
昭和36年5月30日付で川端におくられます

・・・・・・
ノーベル賞の件、小生如きの拙文で却って御迷惑かとも存じますが、
お言葉に甘え、僭越ながら一文を草し同封いたしました。
少しでもお役に立てれば、この上の幸せはございません。又
この他にも何なりとお申し付け下さいますやうお願ひ申上げます。
・・・・・・


ノーベル賞の日本候補者は大方の予想は
谷崎潤一郎といわれて思われていましたが、
現実は川端となります。
しかし川端本人もまた、推薦文の依頼をうけた
三島も受賞にはいたらないとふんでいたと思われます。
だからこそ、三島も気持よく推薦文を受けたのでしょう。
三島こそノーベル賞にふさわしい!と
三島自身が思っていたでしょう。
だから川端は、

昭和37年4月17日付

まああなたの時代まで延期でせう

と記しています。

その1/2/3/4/5/6/7                             





 


*川端康成自画像は六文銭さんよりお借りしたものです。
     ブログ 六文銭の部屋へようこそ!
     写真は岐阜の旧「みなと館」、現「ホテルパーク」にて撮影されたもの。


川端康成記念会
三島由紀夫文学館
 
27
 





昭和25年3月15日付の川端康成から三島に宛てた手紙

・・・・・・
 今年度国際ペンクラブ大会、エディンバラにて八月中ごろ一週間、
の正式の招待状届きました。・・・・・・
あなたも一寸行ってみませんか。ペンクラブ代表として推薦する事ハ
困難でせうが、一員として如何ですか。百万円くらいで行ってこられ
ます。百万円くらいハお出来になるでせう。まあ機会ハいくらでもあ
りますが、なるべく早くヨオロッパ見て来た方がよいでせう。
・・・・・・



それに対しての
昭和25年3月18日付の三島由紀夫の手紙

・・・・・・
 本日はご丁寧なお手紙ありがとうございました。
エディンバラへ行ったらどうか、といふ箇所を拝見し
ワアーッとよろこんでしまひ、もう一寸よみましたら、
百万円要ることがわかり、ガッカリしました。
私の力では、宝くじを買ふほかに手がございません。
・・・・・・(←三島本人)それともどこかへ
頼みやうがございませうか?・・・・・・




可愛いでしょう?三島。
外国へ今すぐにでも行きたい心情があふれているし
子どものような文でしょ。

三島は2年後に外遊します。
読む、こちらも「よかったね」と安堵してしまいます。



昭和28年12月18日付川端の手紙

・・・御みごとな巻鮭今日拝受しました
頂戴ものばかりして居る様です



その前は「美しいお菓子」をもらっていますが、
川端もよくお菓子などの贈物を三島に届けています。
あるいは高価な品物(美術品等)のやりとりもあります。


他の作家が羨むような師弟関係が続きます。
昭和33年10月に川端は体調不良のために
夫婦共に東大病院へ入院します。
師を思う三島の手紙は凄いというか、
笑いもこみああげてきます。




昭和33年10月31日付三島の手紙

 前略先日御約束申し上げました如く、父母と話し合ひ、
ご入院に必要の品目をおしらせ申し上げます。

(一)寝具類
一、ベット(←ママ)の藁布団の上に敷く敷布団二枚
一、毛布二枚
一、羽根布団一枚
一、敷布四、五枚
一、枕掛四、五枚
一、円座
一、下着類
一、浴衣五、六枚
一、普通のタオル十枚 非常に汗をかく時の用意
一、湯上りタオル二枚
一、どてら一枚
(二)洗面及び身の廻り品
一、ビニールの風呂敷大小二枚
一、衣紋掛け
一、氷枕
一、懐炉


と、こまごまと75品目にわたって
延々と続きご丁寧にも下記↓へ続き、

右のほとんどの品は、上野松坂屋(月曜定休)で
揃ふさうでございます。



と、なるわけで、
三島の几帳面さ、義理堅さ、愛情が
つまった手紙です。                     

その1/2/3/4/5/6/7





川端康成記念会
三島由紀夫文学館
 
23
 







三島はこまめに手紙を出します。


昭和22年7月17日付の三島の手紙

 勉強の傍ら、勧銀の入社試験を受けて落ちました。
 弟が僕の部屋に来て、「お父様がね、お兄が可哀想だ
と云っているよ、とても絶望落胆してるよ。」
僕「へえ、僕は大抵のことにはへこたれないんだけどね、
昼寝をすれば何でも忘れてしまふ人間だがね、しかしお父様には
絶望落胆してひると思はせておく方がいいんだよ」
僕はこんな親不幸なことを言ひながらも、一寸オヤジに好意を
もちます。



と、親しい友人にだすような内容の手紙です。


学生ながら才能があり、無防備に懐に飛びこんでくる
三島を川端が厭うはずがありません。

三島は、出す手紙にこれから書く長編の構想なども
縷々と書きつづるなど、
高揚した文学青年の顔をおしげもなく
みせています。


昭和22年10月8日付の三島の手紙

・・・・・・
 太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。
滅亡の叙事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されています。
・・・完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の
妙な不安がまだこびりついています。
太宰氏の文学はけっして完璧にならないものなのでございませう。
しかし叙事詩は絶対に完璧であらねばなりません。
「斜陽」から、こんな無意味な感想を抱いたりいたしました。



芥川賞のことあれこれに書きましたが、
太宰は芥川賞ほしさに女々しい手紙を川端康成に
書きおくっています。
川端は太宰の生活の乱れを不快に思い選評にそのことを
はっきりと残しています。

<第1回芥川賞 太宰に対する川端の選評>
「逆行と道化の華は一見別人の如く、そこに才華も見られ、
なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に
盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、
才能の素直に発せざる憾みあった」


その川端に、わざわざ斜陽の感想をおくりつける三島。

三島はこの年の1月に太宰に面とむかって、
「ぼくは太宰さんの文学は嫌いなんです」といったことは
有名です。
それに対して太宰は「嫌いなら来なけりゃいいじゃねえか」
言い放ち、「ホントは好きなくせに」と言ったとか言わなかったとか。

三島は太宰の才能に嫉妬していたのでしょう。
だからわざわざ川端康成に無邪気を装って
手紙をだしたのでしょう。


  




無邪気を装う三島。
初やつだなあと思う川端。

                         その1/2/3/4/5/6/7          


 
22
 






東大学在学中、三島由紀夫は川端康成に
処女小説集、「花ざかりの森」を送ります。


私たちの想像する川端は人間嫌いで
若い人に目をかけるような人物とは
思えません。
が、
実は彼は昭和10年頃までは批評文をよく書き、
添削などもひきうけ新進の小説家に
とても注意をはらっていたといいます。
その注意は嫉妬などではなく
育てるという意味でです。

あの風貌からは意外です。

それが途絶えたのは期待し得る新人が出て
こなかったということ。

目利きの川端からすれば淋しいものだったに
違いありません。

そこへ出てきたのが三島由紀夫です。

川端は「花ざかりの森」の拝受の返礼を
即座に出します。

それは昭和20年3月8日。
東京大空襲の2日前です。

返礼には疎開の荷造り中の物を見に行ったとあり、
「宗達、光琳、乾山をみて、近頃の空模様すっかり
忘れました」となんとはなしにおっとりと
したためられています。

それに対して10日の大空襲をはさんでの三島の
返信(16日付け)は「都もやがて修羅のちまた」と。

戦局のなまなましさを感じとることができる
書簡のはじまりです。


三島は文壇に対してとても野心があり、
デビューを切望して動いていました。
川端に処女作を送る前には佐藤春夫の門を
叩いたりもしています。
が、
川端についたのは賢明、あるいは利に聡かった
といえます。
川端は、この新人の面倒をとてもよく
みます。

三島も川端もお互いに筆まめだったのでしょう。
文通のようにやりとりがはじまります。






三島はあふれるような文学の思いや自分の考えを
丁寧な言葉ですが、伸び伸びと素直に語ります。

↓昭和21年4月15日付の三島の手紙です。

「雪国」については(この作品は何度拝読しましたことか!)
あまりに大きく高く、小さな私には牧童がいつかあの山へも
登れるかと夢想する彼方の青いアルプスの高峯のやうに仰がれる
のみでございます。」


三島の手紙の末尾は常に

何卒御身大切に遊ばしますやう。

で、おわります。


川端が可愛がらないはずはありません。
 
   
            
その1/2/3/4/5/6/7




  




川端康成記念会
三島由紀夫文学館
 
21
 





昭和20年3月8日の手紙のやりとりではじまる
川端康成・三島由紀夫往復書簡 (新潮文庫)
たいした本だといつも思う。






                                    次回




 
18
 
円照寺  ///  




<文智女王御幼年時玩具>




奈良円照寺、寺宝のテレホンカードです。

掌のうえで、緋色がとても映えて
いつまでも愛でていたいような
カードです。

文智女王とは、
後水尾天皇の第1皇女として江戸時代前期に
お生まれになり、出家されて円照寺の元となる
庵を京都にあまれた女王です。


緋色の布は袱紗(ふくさ)でしょうか。




機会があれば円照寺には再度拝観にお伺いしたいものです。




*円照寺 ///                        前回
 
15
 


聖徳太子の愛犬雪丸(奈良達磨寺) 本文とは無関係>


前回のノンシャラン追記といってもたいしたことではありません。
吉行淳之介の芥川賞選評を追っていましたら、
期せずして「ノンシャラン」に出会いました。


「私の推したのは、「オキナワの少年」と「玩具の兵隊」であった。」
「おそらくずいぶんの努力の末にノンシャラン風
文体をつくり出したのは、手柄である。ただ、終りのところ、
少年が家出先を無人島ときめたのは、あまりおもしろくない。
この作品の成功は、主人公が少年であることが大きなポイントで、
これからの作者は苦しむだろう。」


上記の選評は
昭和46年/1971年下半期第66回芥川賞受賞
東峰夫 「オキナワの少年」
にたいしての吉行淳之介の選評です。

飄々とした文体なのでしょうか?
読んではいないので、想像です。




オキナワの少年 (1972年)


あらすじはコチラをご覧になればわかりますが、
とても重い命題をもった小説のようです。
こういう小説をノンシャランとした文で紡ぎ、
吉行をして「手柄である」といわしめたのは
相当の実力なのでしょう。



中野翠さんの映画評からノンシャランという言葉に
久し振りに出会い、吉行淳之介さんの論評にても
時を経ずして偶然会うなんて・・・。
実は私は、中野さんは少し、そして吉行さんは
すごく好きっ、なんです。


ノンシャラン追記というよりノンシャラン脱線。
いや、「芥川賞あれこれ その8」の様相と化して
しまいました。




参考ウェブ 芥川賞のすべて・のようなもの
*聖徳太子の愛犬雪丸の詳細はコチラです
*芥川賞あれこれ ///////





合気道のお知らせ

合気道入江道場は現在、下記にて道場を開いています。

現在、京都府京都市、亀岡市、滋賀県大津市、
東京都武蔵野市桜堤

興味のある方は入江道場HPをご覧ください。

なお、3月17日(土)に烏丸御池稽古会 体験稽古会を開催します
入門をお考えの方はおこしください。 詳細はコチラ



多田宏師範 合気道技法全集 第1巻 抑技編 [DVD]






吉林食堂 劇団道化 の お知らせ

会場  東京都江戸東京博物館ホール
日時  2012年3月20日(火曜日・祝)
開場  14:30 開演 15:00
料金  2800円(前売り 2500円)
電話  092−922−9738

メール info@douke.co.jp
ホームページ



 
13
 





週刊文春の映画評論、シネマチャートを読んでいたら
懐かしい言葉にであった。


ノンシャラン



中野翠の論評の中での一言。



懐かしくてノンシャラン・・・と口でなぞる。




何十年もこの言葉を聞いたことないような気がする。
実際この言葉を私が発したことはあるやいなか!?
多分、聞いたことはあっても私が口にしたことはない・・・ような。

このノンシャランは昭和30年40年代に使われていたような気がする。

勿論子どもは使っていなかったような気がする。
だから私は使わなかった。
いや使えなかった。
使っていたのは、
フレアスカートにピンヒールを履いた
小生意気なおねえさまがただった・・・ような気がする。



その当時の女優で言えば団令子が使っていそう。


「ノンシャランしちゃってさ」という具合に。

どういう意味かというと、

無責任
とか、
なげやり
とか、
のんべんだらり
とか、
無関係
とか、
調子いいとか
とか、
お気楽
とか、
太平楽、

みたいな感じ。


褒め言葉ではないわいな。




中野翠さんらしいなあ、と思いつつノンシャランって
どういう漢字なのかなあと調べて驚いてしまう。


日本語ではなかった。



フランス語。

nonchalant



ハレンチ
という
言葉が日本語だと知ったときと同じような驚き。
破廉恥。



そういえば、ハレンチという言葉も
聞かれなくなってひさしい。



こうやってつらつらしていると
フランス語の先生のことを思い出した。
ちょっと薹が立った(←これも死語?)彼女は「ノンシャラン」
って当時使っていたに違いない。

彼女は自慢げに言っていた。
「ちょっとフランス語をかじると、
あんたアッシュ(H)ねえなんて言う女性がいますが・・・」。

それを聞きながら私たち学生は「言わない言わない」と
心の中で思っていた。

彼女はよほどこれが気にいっているらしく
しつこくしつこく言ったもんだ。

「エッチはエッチだよ」と私たちもしつこく心で
叫んだものだ。



さて、このノンシャラン。
私たち年代は誰でも知っていると思い聞いてみました。
が、
5人中1人のみが知っていたのですが、意味までは
正確には知りませんでした。
これは驚きでした。



    

         




そういえば、石坂洋次郎
の小説やその映画化に出て来そうな言葉です。

でも、石坂洋次郎の小説を読む人も今はいないのでしょうねえ。


ちょっとがっかりしてしまいます。





脱線してしまいました。
ノンシャランにもどりましょう。

この言葉がフランス語とわかったからには
友人のフランス人にちゃんとした発音を
教えてもらおうと、
意気込みました。このわたくし。
でも日本語堪能な友人のタンタンがいません。
仕方なく、日本語がわからないフランス友人
に聞いてみました。


「ねえねえ、ノンシャランって言ってみてよ」
「What?」
「だから、ノンシャラン」
「ノンシャラン? What?」
「だから、のんしゃらん って発音して」
「のんしゃらん???」

通じない!

堂々巡りの会話です。
スペルを覚えていなかった私がいけなかったのですが、
あまりいい言葉ではないノンシャラン。
今にして思えば、
日本語のわからない彼は自分のことをnonchalantと
言われているかと怒ったに違いありません。
スペルを忘れていてよかった。

安堵。


なんだか、ノンシャランをめぐってお話がぐるぐる
遊んでしまいましたが、
「ノンシャランとしちゃってさあ」・・・って
政治屋さんに言いたくなってきました。




<ノンシャランとぬるま湯につかるseijiyaさん>



中野翠さんの映画評
 <汽車はふたたび故郷へ(仏・グルジア)
 監督・オタール・イオセリアーニ >
 この監督ならではのファニーでノンシャランでしかも辛辣な人間描写が愉しい。
 心なしかラストに一抹の寂寥感がある。

  


*トップ画像は愛犬ラブラドールで、18才です。
 ノンシャランとしているのでは
 なくて、ちょっとボケているのです。






合気道のお知らせ

合気道入江道場は現在、下記にて道場を開いています。

現在、京都府京都市、亀岡市、滋賀県大津市、
東京都武蔵野市桜堤

興味のある方は入江道場HPをご覧ください。

なお、3月17日(土)に烏丸御池稽古会 体験稽古会を開催します
入門をお考えの方はおこしください。 詳細はコチラ



多田宏師範 合気道技法全集 第1巻 抑技編 [DVD]






吉林食堂 劇団道化 の お知らせ

会場  東京都江戸東京博物館ホール
日時  2012年3月20日(火曜日・祝)
開場  14:30 開演 15:00
料金  2800円(前売り 2500円)
電話  092−922−9738

メール info@douke.co.jp
ホームページ



 
08
 

静寂の尼僧寺院と正暦寺ツアー録
<奈良佐保路 法蓮山 興福院(こんぶいん) >           


<興福院 本堂>



住所 奈良県奈良市法蓮町881
電話 0742-22-2890
交通 近鉄奈良駅から「自衛隊前」、「西大寺」行き
   「佐保小学校前」下車、徒歩5分


山号 法蓮山
宗旨 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建 天平勝宝年間(749 - 757年)
開基 和気清麻呂あるいは藤原百川
*  拝観要予約



<大門とツアー参加者>



佐保山のなだらかな傾斜に美しい姿をとどめる
尼寺らしい御寺、それが興福院です。


佐保山とは、佐保川北方に広がる丘陵地帯の総称です。
また佐保路とは東大寺転害門から西に延びて
法華寺にいたるまでの道をさします。


  
  転害門            法華寺



この興福院は観光案内本には小堀遠州好みの作庭が
美しい尼寺として紹介されています。
拝観は電話予約にてと記載されていますが、実際は電話しても
拝観を約束されることは非常に難しいと思ってください。

私自身、観光本の記載を真に受けて再三電話したのですが、
願いは一度もかないませんでした。

ところが、奈良交通の観光バス案内をみて驚きました。
「静寂の尼僧寺院と正暦寺」コースがしたてられていたのです。
静寂の尼僧寺院とは、この興福院と大和三門跡寺のひとつの
円照寺です。

申し込まない手はありません。
2010年2月10日。9時30分。
近鉄奈良駅前から観光バスにのってこの拝観ツアーは
はじまりました。



<大門から中門をのぞむ>







寺伝では天平勝宝年間(749 - 757年)に現近鉄尼ヶ辻駅近く
創建されたといわれます。
安土桃山時代に小堀遠州が建物や庭に関与したといわれ、
現在の興福院の庭は遠州に息子の作といわれています。


まだ、春には早く、梅の枝に花はなく木々も寂しい色でしたが
4月には参道、そして佐保川沿いに桜が咲きほこり
5月にはサツキがとてもきれいとのこと。

いにしえより佐保山の佐保姫は春の女神といわれ、
「佐保山の佐保姫が息をふきかけると奈良に春がおとずれる」
といいます。

まさに大和の春は佐保山の興福院からですね。




<本堂扁額>





<本堂蛙股>


本堂にはご本尊である木心乾漆阿弥陀三尊像がまつられ
ています。
乾漆(かんしつ)とは、木彫に木屑漆(こくそうるし)を塗り
さらに削るという手法で、興福寺の阿修羅像がこの手法です。
この工法はこまやかな表情をつくりだすことが可能です。

天平時代のお作ですが、稚拙なところのない
たっぷりとしたお身体に慈悲深いお顔をもたれた
バランスのとれた御像です。
像高は90cm弱ですが、ふくよかなせいかもっと大きく
感じます。

説明によると明治の初めにかなりの
強引な補修がなされたとのことです。

余談になりますが、明治初期の補修は、従来のところどころ剥離
した傷のある表面をとりのぞかずに、その上に漆を厚く塗りこめる
といういい加減なものが多いと聞いています。

それはそれとして、この三尊の尊さは確かなものです。
残念ながら画像がありませんので寺もっちゃんさんのブログ、
奈良の文化と芸術」をごらんください。三尊がアップされています。







本堂の庇には大きな蜂の巣(からっぽ)がぶらさがっていました。
老いた尼さんが蜂の巣をみて黄色い声を出して騒ぐのもいといとほし。





<客殿 檜皮葺の唐門>

  







<客殿より眺める>













    
         <手水鉢>    




<客殿>
 

江戸中期に建てられた客殿は保存状態がよく
入母屋造り檜皮葺の屋根の傾斜が美しく、
禅寺の方丈を思い起こさせます。
洗練された無駄な物がいっさいない気品がただよいます。
奈良で一番美しい尼寺とよばれるゆえんは
この客殿でしょうか。









<興福院の見どころ>
・御本尊 阿弥陀如来三尊坐像
・客殿の入母屋造り檜皮葺 屋根
・徳川綱吉の側室・瑞春院の寄進による
     刺繍袱紗(江戸帛紗(ふくさ)


<佐保路の寺院>
興福院
不退寺
海龍王寺
法華寺


<奈良交通主催>
「静寂の尼僧寺院と正暦寺」バスツアー
2010.2.10
 興福院→正暦寺円照寺


    

*「静寂の尼僧寺院と正暦寺」ツアーはは2、3、12月開催されています。
  奈良交通定期観光サイト
*木心乾漆は「もくしんかんしつ」と読みます。木心ではありませんが
三輪途道先生の木彫は乾漆つくりです。
  



       
興福院所蔵刺繍掛袱紗 小堀遠州の美を訪ねて  佐保路 入江泰吉大和路巡礼


この項の画像の転載を禁じます。
 
04
 






前回、古型博多人形のお雛様をご覧いれましたが
今回はその土鈴です。

高さは12cmと土鈴としては大きいといえます。
鳴る音はこの大きさに土ですから転がるような
愛らしい音とはいえず、ころんころんと平仮名書き
が似合う音といえます。






この男雛女雛ひと組の土鈴は昭和56年に
4代目中ノ子勝美によって作られたものです。

博多人形は1600年頃に福岡にて、
白水家、正木家、中ノ子家が考案したと
いわれています。

作風は当然洗練されていくのですが
本来の土臭い人形作りをまもったのが
中ノ子吉兵衛で、中ノ子勝美が
繊細な博多人形と区別するために
昭和28年に「古型」という冠を博多人形の前に
つけ初代2代の作品を復元しました。






私が幼いころは、型からはずされた無数の博多人形が
整然とならんで天日干しされる姿をよく空き地で
みかけたものです。

 
01
 






連れとの二人の暮らしですが、
毎年この季節になると
お雛様を段ボール箱からとりとりだします。

これも毎年のことですが、
このお雛様のお顔をみると
私が子供の頃の母との思い出が
蘇ります。




小学校の1年生の時のお話です。

当時子どもたちの間で流行っていたお人形は
カール人形。
横にすると目を閉じる金髪の巻き毛のお人形さんです。
流行っていたといっても高価なものでおねだりして
簡単に買ってもらえるようなものではありませんでした。

私は信用組合からもらった打出の小槌が
描かれた貯金箱に毎日毎日小銭をいれました。
1円やら10円やら50円をこつこついれました。
この貯金箱がいっぱいになったら
デパートにいって、「カール人形」を買う。
我ままで堪え性のない私でしたが、
カール人形が手に入るならと三日坊主にならずに
入り口まで、いっぱいの小銭が貯まりました。
貯金箱をいっぱいにするのには随分の月日が
かかったものです。

小銭は3,000円に達していました。
デパートまではバスで1時間もかかります。
ちょうど博多にでかける用事のあった母に
私はお金をたくしました。

母が帰ってくるのが待ち遠しかったのは
言うまでもありません。

日が傾きかける頃、母は大きな直方体の箱を下げて
戻って来ました。

その箱の形に瞬間的に疑問を持ったのですが
深く考えずに包みをといて、
姿をあらわしたものにがっかりし尻もちをついて
しまいました。
それが、毎年段ボールから今もだす「立ち雛」です。

私は「カール人形を買ってきてね」、と母に頼んだのです。
そして母も私がそのためにお金を貯めていたことを
知っていたのに・・・。

母は言いました。
「お母さん、お雛様が欲しかったの」。

その言葉を聞くや、悲しくてやりきれなくて泣きだして
しまいました。
その涙をぬぐった手で、女雛様の顔をさわってしまったのです。
するとどうでしょう。
お雛様の眉と目がくずれてぼやけてしまいました。
それを見た母は、私をきつく叱ったのですから、
子ども心にも不条理なお話です。








人生の不条理をはじめて知ったわたくし的大騒動です。





<古型博多人形内裏雛 中ノ子勝美作>



時を経て私自身の意思で購入したお雛様は
福岡出身ということもあり、
古型博多人形作家の4代目 中ノ子勝美氏に
依頼して作っていただいたものです。



さて、子供のころ大騒動のうえ飾られることになった
木目込みの立ち雛ですが、
男雛と女雛をどちらに飾っていいかわからない・・・
という困った問題がもちあがりました。

昭和30年代は、情報がすくなくてすべてが曖昧。
地元の家具屋さんやおもちゃ屋さんをのぞくと
男雛が右もあれば左もある。
問うと、なべて「うちは前からこうだったから」。

長じて、実はどちらも正解と知ることになります。
関東と関西は男雛と女雛の位置が逆です。

関西は「天子南面して東に座す」という古来の儀式にのっとり
紫宸殿を背にして向かって右に男雛を飾ります。
それでは関東はなぜ左かというと、
明治維新で西洋文化がはいり、大正天皇即位時に
天皇の立ち位置が変わり向かって左にお立ちになって
以来現在にいたるというわけです。

ところが、ネットでチャールズ皇太子他のヨーロッパの
王族の結婚式画像を調べますと、大聖堂からでておいでの
立ち位置やバルコニーでの立ち位置が変わっていたりと
判然としません。
国民へのサービスとして位置をおかえになるのかもしれませんね。

それに比べて日本の皇族はつねにむかって殿下が左においでです。









「お内裏雛」とはお雛様1対(男雛・女雛)をいうのですが、
近頃は、「男雛」を「お内裏さま」といい「女雛」を「お雛さま」
というのが一般的になってしまっています。
これは誰もがこの季節に歌ったことがある童謡「うれしいひなまつり」
の歌詞「おだいりさま と おひなさま」が定着しての誤用です。







    雛二つ桃一枝や床の上
        (正岡子規 明治29年作)




      



プロフィール

gurekomom

Author:gurekomom
ひとりテクテク、本をポッケにいれてお仏像巡りをしている時が一番幸せです。
楽天のマムの素より移転してきました。こちらに収められてない神社仏閣がたくさん記録されています。
https://plaza.rakuten.co.jp/cotton12/
またカバ屋印では日常のてんやわんやぶりを公開しています。
http://pocomom12.blog.fc2.com/

掲載写真の無断使用は禁止いたします。ご使用になりたい場合はご一報ください。

カレンダー

02 | 2012/03 | 04
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリ

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

ありがとう

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR
Copyright © gurekomom / Designed by Paroday